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なーママふわ∞ポム日記

~関ジャニ∞を中心に、時折KinKi Kidsや嵐のことをふわふわと綴るブログ~

6年前の3月11日

6年前の昨日、発生した東日本大震災

本当は昨日記事を書き上げていたのですが、ダラダラとわたくしごとを書き連ねるのはどうなのかな、と思い直し、記事をアップしませんでした。

ですが、昨夜の『大倉くんと高橋くん』を聴き、大倉さん・高橋優さんの言葉一つひとつであの日を思い出し、やはり記事をアップすることにしました。

 

被災地の被害、被災者の方々が失ったものや心の傷と比べれば、私が経験した東日本大震災など比べる対象にもなりえず、ブログの主旨とも全く関係ありませんが、少しでもご興味のある方はお読みいただけると嬉しいです。

当時の私の状況

東日本大震災が発生する10日前の2011年3月1日。

私は再就職し、全く馴染みのない場所で働き始めました。

私が東京に移り住んでから9か月後のことです。

 

昨年「保育園落ちた 日本死ね」という言葉が話題に上りましたが、

私が再就職した時も状況は全く同じでした。

認可保育所の締め切りはとっくに過ぎ、近辺の認証保育所を片っ端から10件以上電話しましたが定員の空きはなく、無認可保育所すら同じ状況でした。

やっと見つけた無認可保育所は、山手線を乗り、さらに駅から徒歩10分、月額保育料10万円の新設保育所でした。

その時娘は1歳半。

訳の分からぬままいきなり見知らぬ集団の中で日中のほとんどの時間を過ごすこととなった娘は、迎えに行けば泣きすぎて声が枯れる日々が続いていました。

 

私は私で、東京に移住後、乳児を連れて行ける場所が限られていたので、東京に住んでいても地理をほとんど把握していない状況での再就職でした。

縁もゆかりもなく、右も左もわからない場所で働き始めた10日後に東日本大震災は起こりました。

 

地震直後

私はバブル期に建てられた、1フロアーに1つの会社しか入らないような小さなビルの7階で働いていました。

地震の揺れはすさまじく、あらゆるものが棚から落ち、高さ1メートル横幅1.5メートルほどの受付台は倒れて完全に壊れました。

私は阪神淡路大震災を経験していましたが、そのときよりも大きく長く激しい揺れでした。

 

東日本大震災が起きた当日に最も困ったこと、それは電話が繋がらなかったことでした。

まず娘の保育所に電話しようとしても、携帯電話は全く使えず、会社の電話で何度もかけ、ようやく無事であることとこれから建物の外に避難することを知らされました。

その頃には、あの津波が押し寄せて街を呑み込んでいく様子がテレビで放送され、そこでようやくこれまで経験したことのない甚大な地震が現実に起きたことを実感しました。

そしてまもなく、首都圏のJR・私鉄・地下鉄といった鉄道各社が完全にストップし、復旧のメドが全く立っていないことを知りました。

 

私はすぐさま夫の携帯電話にかけ続け、数十回のコールを経てようやく夫に繋がりました。

ところが、夫から返ってきた言葉は、

「まぁ、夕方には復旧してるんじゃない?」

という軽いノリの返事でした。

そんなわけないと何度説明しても無駄だったので、電話を切り、私が何としてでも娘を迎えに行かなければならないと腹を括りました。

後日談ですが、夫が軽いノリで返事したのにはそれ相応の理由がありました。

夫の職場は超のつく免震ビルだったため、東日本大震災でのあの激しい揺れでも、デスクの上にあったティッシュ箱が落ちた程度の揺れしか感じていなかったのです(ただし、船に乗っているような長い揺れは相当長く続いたそうです)。

 

娘を迎えに行くまでの長い道のり

そして、すぐに荷物をまとめて職場を出たら、バスターミナルにものすごい数の人が溢れていました。

私にとって見知らぬ土地だったので、どこ行きのバスに乗っていいのかすらわかりませんでしたが、何となくの感覚で、今いる場所と娘の保育所の中間地点にあたる場所方面行のバスがあり、幸いその停留所には列がなくすぐに乗れたので、それに飛び乗りました。

そのバスに乗って終点地の駅に着くころに鉄道が復旧していることを望みましたが、やはり完全にストップしていました。親切な駅員さんが、この先1.5㎞の場所にバスの車庫があるので、そこまで歩いてみてはどうかと提案されました。このときには既に日が暮れかかり、段々と暗くなる初めて通る道に不安を抱えつつ歩き進めました。

1.5㎞を歩いてその車庫に着くと、そこから娘の保育所の最寄り駅の隣駅行きのバスがあることを知り、またそれに飛び乗りました。

最初は順調に進んでいたバスは、いつしかスピードが遅くなり、明らかに渋滞にはまっているのに気付きました。今度はバスが動かなくなってしまったのです。

ですが、全く分からない場所で降りても、そこから娘の保育所にどうやって行けばいいのかわからなければ意味がないと思い、とにかく聞いたことのある地名が出てくるまで待つことにしました。

そして、聞いたことのある地名が出て、運転手さんも「この先いつ辿り着くかわかりません」とのアナウンスがあったので、思い切って下車し、すぐにコンビニを見つけ、地図を買い、店員さんに現在地と娘の保育所の場所を教えてもらったところ、ここからまだ4㎞ほどあるとの回答でした。

そのとき既に午後7時30分になっていました。

娘の保育所は最大午後8時までしか預かってもらえません。

慣れないヒールを履いた私は覚悟を決め、4㎞先を目指してひたすら走り続けました。娘の保育所近くに目印となる高層ビルがありましたが、走っても走っても全然近づかない。でも時間は刻々と過ぎていく。本当にこの道で大丈夫なのだろうか…と不安を抱えつつ走り続け、私は完全に息が上がった状態で娘の保育所に到着しました。時間は午後8時ジャストでした。

 

保育所はゴールではなかった

この日は金曜日で娘は乳児だったので、保育所から渡された大きなバッグの中には、使用済バスタオル3枚、使用済着替え5セット、使用済オムツ10個以上がぎっしりと詰まっていました。私は娘の保育所かばんを右肩に、自分の通勤バッグを左肩に、抱っこひもで娘を前に抱っこという、1.5㎞の徒歩+4㎞のダッシュで疲労困憊した体に、荷物+娘で軽く10㎏以上はある重しをさらに装着して、保育所の最寄駅からバスで帰ろうとしました。

 

バスを待つ間、私は夫に娘をピックアップした旨をメールし、ふと顔を上げると、メールを打つ前に目の前にいた車が1㎜たりとも動いていないことに気付きました。そして辺りを見回すと、路上にあるどの車も全く動いていないことに気付き、ここで私は、重い荷物と1歳半の娘を抱っこしつつ、ここからさらに1時間以上歩いて帰らなければならない事実を悟りました。

 

東京は坂が多く、見た目以上にアップダウンがあります。

私は、またも先ほどコンビニで買った地図を頼りに自宅への道のりをひたすら歩き続けました。途中、娘がひどく泣き出せばおんぶにし、肩がつらくなれば抱っこに戻し…を繰り返しつつ。

結局自宅に到着したのは、午後9時30分。

私が職場を出てから5時間後のことでした。

 

3.11の後の状況

東日本大震災が発生した後、東京からしばらくネオンが消えました。

福島第一原発が水蒸気爆発を起こした日の電車は、すし詰めという言葉どころではない、おそらく乗車率300%以上のひどい有様で、車内には怒号が飛び交っていました。

スーパーから食料品、とりわけミネラルウォーターと生鮮食品、ベビーフードがなくなり、紙おむつも長らく品切れが続きました。

大人はまだしも、まだ離乳食が完了していなかった娘の食事をどうしたらいいのか、日々の紙おむつはどうしたらいいのか、途方にくれました。

本当に本当に困って、初めて自分から双方の実家にそれらの物を送ってほしいと頭を下げました。

あの日のこと、あの時期のことを思い出そうとしても、あの孤独で慌ただしく時時刻刻と変わる状況をどう切り抜けたのか、詳細はあまり思い出せません。ただ、間違いなく日々を生きるのに精いっぱいでした。

 

当時のことを振り返り、私がとった行動は全く正しいとは言えず、余震や火災などの二次災害を考えるととても危険な行動だったと思いますが、あの時の私には娘を迎えに行くことだけしか考えられませんでした

東日本大震災は、私が東京で生きていくうえでのたくさんの課題を突き付けた、大きな出来事で、私はこれからも、3月11日になればこの日のことを思い出すし、おそらく一生忘れられない体験なのでしょう。

一方で、昨夜『大倉くんと高橋くん』で大倉さんが言ったように、忘れるくらい楽しい瞬間も大切にしたいと思います。

阪神淡路大震災東日本大震災を体験し、関西に帰る選択肢を選ばずに東京に留まることを選んだ。

そんな関ジャニ∞に、もしかしたら私は同士のような感情さえ抱いているのかもしれないと、昨夜の『大倉くんと高橋くん』を聴きながら思いました。